元工業大学生のドイツ修行記

ドイツの大学に留学した元工業大学生の備忘録のようなもの

Wir sind Samurai: Nr. 1

Grüß Gott!

 

日本に帰国して数週間が経ちました。生まれ育ち、慣れ親しんだ環境や風景に戻ってきて、自分がドイツにいたのは夢だったんじゃないかと錯覚するほど、時が経つ早さと環境の大きな変化を改めて実感しています。

 

 さて、改めて日本で生活し始めた私ですが、こここまでで早くも感じたことを何回かに分けて(ドイツにいた時から感じてたことも交えながら)、つらつらと書き記していこうと思います。

まぁ基本的に、海外に行ったことある人や、留学経験者の方とっては、非常に月並みで「そんなの知ってるわwww」みたいな事ばかりかもしれませんが、そうで無い人たちにとって、少しでも何か新しい発見や探究心のようなものを見出せるよう文字に起こすのが、とりあえずの今の僕だからこそできる事だと思うので、こうしてつらつら書いている次第です(ま、ただの思い上がりなのかもしれませんがねw)

 

 

 さて突然ですが、みなさんは侍(あるいは武士)はまだ生きていると思いますか?

(私が小中学校の頃習った歴史の授業の話で言えば)侍が出現し始めたのは、鎌倉時代に突入する前、平安後期ごろだとされています。つまり今から大体900年くらい前(であってますかね?)。

今となってはうーんと昔のことですが、私はドイツで1年を過ごし、「侍はまだまだ生きている」と感じるようになりました。正確には「私たち日本人の中に生き続けている」ということです。

 

特に「修行精神」、「忠」とそこから生じる「恩」と「義理」という思想・概念が日本人を日本人たらしめるもののように感じています。

 今回は「修行精神」に着目して、相変わらず薄っぺらな知識を振りかざして、留学中の話なんかも交えて、私なりに考えていこうと思います。

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さて、まず私が留学していたミュンヘン及びバイエルン州は、敬虔なカトリックの人たちが暮らし、またその思想の基でその土地が治められてきた歴史を持ち、その色が今なお残っている側面があります。

例えば(以前も話題にしたかもしれませんが)、ミュンヘンのお店や役所などは日曜と祝日は閉まっています(飲食店も開いているものの夜だけ営業のところが多かったです)。これは、聖書に書かれた文言に由来する「安息日」に当たるのかなと思います。そして、特に信仰心が熱い方は、日曜の朝に教会で行われる礼拝に参加するわけです。

また、平日・土曜日でも飲食店や一部のお店を除いて20時になると閉店となります。閉店ギリギリにスーパーマーケットにいると、客の事情はおかまいなしに、店員が店仕舞いをおっ始めます。私が閉店間際にお肉コーナーで迷っていても、容赦無くカーテンが閉まり始めます笑

ここには、休むことに対する考え方、そして同時に働くという考え方が明らかに日本と異なることが伺えます。

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写真の奥に見えるのがミュンヘンにある一番大きな教会Frauenkirche

 

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一方で日本を見てみれば、最近メディアで騒がれてるブラック企業ですとか、過労死問題など、"頑張る"ことを強いられるケースを多々見聞きすることがあるかと思います。そこには侍たちが培った「修行精神」が息づいているのではないでしょうか?

侍たちは、初めのうちは貴族や領主に雇われ、彼らとその領地を守るものとして働き、その後江戸時代が終わるまで、日本の政治にさえも大きく影響を及ぼす存在として君臨するわけですが、ただ刀を携えてオラついていただけではありません。

彼らは、刀、弓、乗馬、柔術などのいわゆる武芸と呼ばれる、戦いのための訓練を惜しみませんでした。「そりゃ戦闘集団なんだから当たり前だろ」と思う方もいるかもしれませんが、単に腕っ節が強いだけで、子煩悩な人間が政治を動かす程の力を付けられるのでしょうか(もしかしたら古来の日本では可能だったのかもしれませんが……)。そこまで修行に励むことが是とされたその背景には、「仏教」の存在も欠かせないのではないかと、私は考えます。

 

インドを起源とする仏教は、宗派にも寄るかと思いますが、「個々人が修行を惜しまないことで、人々はこの世の苦から解脱することができる」というのが基本的な思想になっていると思います。

そんな仏教は、聖徳太子がいた飛鳥時代から広がりを見せ、その影響はすでに政治にも及んでいたように思います(例えば十七条の憲法とか)。そして、それは侍が実権を握る鎌倉時代には、侍のあり方に対しても大きく影響を与え、また様々な宗派に分かれ庶民にも広がりを見せます(念仏を唱えるだけの宗派などがそれに当たるんですかね)。

また、「座禅」も仏教のある1つの宗派に由来しています。ミュンヘンで出会った中国人学生と、お互いの国の仏教に関して少し話をした時、中国人の仏教には「座禅」が浸透していないらしく、彼らは日本の「座禅」のことを知ってはいましたが、非常に珍しく思っているようでした。

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 このように古来の日本人、そして日本の政治的背景の裏には、「仏教」とそこから発展した修行に対する思想・価値観が潜んでいると、私は思います。

 

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そして古来からのこの思想が、今もなお無意識的に残り、すぐに結果が出なくとも、汗水垂らして頑張ることが美徳であるという価値観に、多かれ少なかれ結びついているように私は感じます。

しかし、一歩外の世界に出れば別の価値観・思想が存在することに、殊にこの資本主義社会というシステムに生きるからこそ、我々は気づかないといけないということを、この1年間のミュンヘンの生活の中で感じました。

 

よくよく考えてみれば、資本主義社会というのは西洋から発達した社会基盤であり、日本が明治時代に入り"西洋化"のために導入したものであります。その時から今までの中で、私たちは果たして本当に資本主義社会を生きてきたと言えるのでしょうか?

正直、資本主義社会そのものを語れる程、私は経済学を学んでいないのですが、それでも素人なりにそんなことを思ったりします。

 

もちろん、私が先に述べた「頑張ることに対する美徳観」を、私自身は完全なる悪だとは思いません。私も日本人ですから、そういった姿に胸打たれることだってあります。

 

しかし、西洋からもたらされた資本主義社会という基盤の中で、頑張ることに対する価値観が本来は相容れない物なのではないかと、私は疑問を抱いています。

 

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ちょーっと長くなりそうなので、どう相容れないかは、次回以降、今度は「忠」や「恩」そして「義理」という考え方を交えながら、私なりの考えをアウトプットしたいと思います。

 

それではまたぁ

Tschüss!

(2018年1月19日 更新)