元工業大学生のドイツ修行記

ドイツの大学に留学した元工業大学生の備忘録のようなもの

Berlin, die moderne Geshichte vom Deutschland: Nr.1

Grüß Gott!

 

前回の記事の続きを書きたいのですが、もう少し調べ物をしてから書きたいなーと思っているので、まだ時間がかかりそうです…すみません。

 

ただ、前回の更新からしばらく時間が経っているので、何か書こうと考えたら、まだベルリンに訪れた時のことを書いてないことに気づきました(^^;)

ということで、今回はドイツの首都、ベルリンで見たものや感じたものをまとめます。

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 ということで、着きました首都ベルリン!私が留学していたミュンヘンから高速鉄道に乗っても6~7時間かかります笑 ちなみに高速道路を使って車で行っても同じくらいのようです。あれ、何かが色々おかしい…こういうところでまた日本との違いに色々気づいたりしますね。

帰国後に知ったのですが、この駅は2006年のサッカーワールドカップドイツ大会に合わせて作られた新しいものだそうで、それまでは東西分断時代のなごりで、長距離列車のための駅がちりじりになっていたそうです。

 

あ、「東西分断時代」というワードを出しましたが、多くの皆さんは第二次大戦後から1991年までドイツが東西に分断されていたことはご存知だと思います。それを象徴するのがここベルリンにあった「ベルリンの壁(独語でBerliner Mauer)」ですが、ではベルリンの壁本来の東西ドイツの国境とは独立した国境であったことはご存知でしょうか?

正直、このことは私も留学中に、ドイツの歴史を学ぶ中で知りました。ではまず、前置きとしてこの点をもう少し詳しくお話したいと思います。

 

  • ドイツ東西分断時代とは

第二次世界大戦後、戦争に負けたドイツは、連合国側であるアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国の統治下におかれます。

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こちらの写真はベルリンにある「東ドイツ博物館 (DDR Museum)」に展示されていたパネルです。ご覧の通りそれぞれの国がどこの地域を統治していたかが示されています(ちなみに留学先のミュンヘンはアメリカの統治下でした)。

ここでまず注目していただきたいのが、後に西ドイツと東ドイツに分かれる際の境界線です。簡単に言えば資本主義側と社会主義側で分かれていたわけですから、ソ連の統治下だったところが東ドイツ、その他の国の統治下だったところが西ドイツに属するわけです。

では、その境界線はベルリンを通過しているでしょうか?よく見るとソ連の統治下地域の中にポツンと、連合国すべての国の国旗に囲まれたところがあります。ここがベルリンです。明らかに東西ドイツの国境はここを通過していません。1871年ドイツ帝国建国以降首都であったベルリンは、パネルに示されている統治下領域とは別に、連合国側の4つの国の統治下に分けられたのです。

ということは!ベルリンの壁は先に説明した東西ドイツの国境とは独立しているのです!ナンダッテー

 

では、東西分断の象徴とされたベルリンの壁は、どこを走っていたのでしょうか?

先に述べたようにベルリン自体はソ連統治下地域にポツンとあるにも関わらず独立して分断され、それぞれ米英仏統治下は西ベルリンとして西ドイツ側に、ソ連統治下は東ベルリンとして東ドイツ側に帰属します。と言うことはつまり、西ベルリンだけが本来の西ドイツ本土内にない飛び地になっていたと言うわけです。

そして、この飛び地である西ベルリンをぐるっと囲み、東ベルリン並びに隣接する東ドイツ領域との接触を遮断していたのがあの「ベルリンの壁」なのです(ようやく登場…)

つまりこう言うこと(作:管理人)

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では、この壁は東西どちらの思惑によって建設されたのでしょうか?

 

ベルリンの壁は、ベルリンが連合国側に統治・分断される当初からあったわけではありません(東西統治地域を出入りするための検問所等は存在していました)。また東西ドイツ間の行き来が封鎖された後も、東西ベルリンの行き来は可能でした。

しかしながら社会の構造は資本主義と社会主義で分けられていました。社会主義社会である東ベルリンに住む市民たちは、その社会構造への不満やより豊かな暮らしを求めて、続々と資本主義社会である西ベルリンに流れていきます。市民の流出に危機感を感じた東ベルリン側は、1961年8月13日、突如として西ベルリンと東側との境界線を遮断し有刺鉄線を張り巡らし始めました。

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この写真は見たことがある方もいると思います。壁建設前の境界封鎖時に、東側の国境警備警察官が有刺鉄線を飛び越えて東ベルリンから西ベルリンに逃げる瞬間をカメラに収めたものです。このように、本来その国を守るべき警察官までもがこの事態に深刻さを覚え、決死の覚悟で亡命を図ったのです。

 

そしてその後、境界をより確実に物理的に遮断するために建設されたのが「ベルリンの壁」というわけです。このベルリンの壁は単なる1枚のコンクリート壁ではありません。

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これは、当時壁があったある道路に展示されている当時の状態を示す模型です。左右に走っている通りに壁が2重構造になって連なっている様子が分かるかと思います。壁と壁の間では、東ドイツ側の警備員が巡回していたり、そこに立っている監視塔からの厳しい目が光っていました。つまり、一筋縄では東側から西側には行くことはできず、壁を越えようとした者や、壁の近くで”不審な動き”があった者は、彼らによって逮捕されたり、射殺されたりしました。

 

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このようにしてベルリンの壁は建設され、ある日突然家族や友人との離別を余儀なくされた人たちや、決死の覚悟で亡命を図るも命を落としてしまった人達が大勢いるのです。

 

このことは、写真などを交えて、(多分)近いうちにお伝えしたいと思います!

壁の解説だけで、まだまだ書くこともできますが長くなるので、取り合えずこの辺で。

 

Tschüss!