元工業大学生のドイツ修行記

ドイツの大学に留学した元工業大学生の備忘録のようなもの

Berlin, die moderne Geshichte vom Deutschland: Nr.2

Grüß Gott!

 

ベルリン探訪記その2です。

↓その1は以下のリンクからどうぞ↓

himazin-deutschland.hatenablog.com

 

前回基本的なことをご説明した「ベルリンの壁」について、今回は現場で撮った写真も交えながら、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

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 と、その前にベルリンのシンボルの1つであるブランデンブルグ門(Brandenburger Tor)をパシャリ。ここでは、ナポレオンがベルリンを征服した際パレードを行うなど、さまざまな出来事が繰り広げられ、この門はベルリン、そしてドイツの歴史上の激動を見つめてきました。

そしてそんなブランデンブルグ門は、ベルリンの壁の建設をも目撃しています。

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先ほどの門を奥(東)に向かって歩くとこのような太い道路が走っています。かつてこの道路にも壁が建設されており、当時米国大統領であったロナルド・レーガンはここで演説を行い、東側に対して壁を取り壊すよう主張したのであります。

 

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さて、では実際に残っている壁はいかなるものなのでしょう。

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こちらは有名なEast side gallery.  高さはだいたい4m前後でしょうか。よじ登れないように上に返しがついているのが、なんともリアルです。

こちらは壁崩壊後も、冷戦期の歴史を忘れぬよう文化財として残され、そこに各国のアーティストが思い思いの絵を描いた箇所になっています(ちなみに東側への不満を示すような単なる壁への落書き自体は冷戦期も存在していたようです)。私が訪れた際はかなりキレイな状態ではありましたが、一時期は落書きなどが多発していたようで、状態を保つのが大変のようです。

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中でも有名なのが、旧ソ連のブレジネフ元書記長と旧東ドイツのホーネッカー元書記長が熱いキスを交わすこのイラスト。当時の旧ソ連旧東ドイツの”親密な”関係を風刺したものです。このような政治的なイラストだけではなく、様々なイラストが1km以上にわたり続いています。

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私が個人的に良いな思ったのはこちら。真ん中の部分が立体的に飛び出ており、そこに土が満たされていて、植物が植えられています。"Wachsen lassen (育ててください)" や "Bitte gießen (お水をあげてください)" と書かれており、自然を愛するドイツ的な発想なのかなと感銘を受けました。

 

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ベルリンの壁」と聞くと、このEast side gallery を思い浮かべる方が多い方と思いますが、他にも街のいくつかのところで壁の跡を見ることができます。

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こちらはベルリン中央駅から北東に行ったところにあるBernauer通り。奥に見えている無数に並んだ鉄の棒の箇所がかつて壁が建っていた場所を示しています。ここの通りも約1km以上にわたって壁の歴史に関する様々な跡や説明、慰霊碑などが残されています。

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壁の跡に沿って歩いていると、たびたびこのようなタイルが埋め込まれた箇所を見つけることができます。これは、東側に住んでいた人々が壁の建設以降、西側に逃げるために掘ったトンネルの経路を示しています。しかしながら、前回説明したように壁は2重構造ですから、数百メートルは掘らないと無事に西側にはたどり着けません。またこのようなトンネル作戦でも西側に無事たどり着いたのは多くないとのこと。マンホールから下水管をつたって逃げようとした者もいたようですが、自体に気づいた東側が下水管の中に人が通れないよう柵を設置してしまい、これもそう長くは続けられなかったようです。

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こちらは壁の建設箇所に建っていたアパートの基礎部分。アパートは国境をまたいでいたものの、玄関が東ベルリン側にあるので、住所としては東ベルリン。しかし、窓から向こうを覗けば西ベルリンというわけです。

ある日突然国境封鎖と壁建設を聞いた住人は、退去を余儀なくされます。 f:id:himazindatch:20171210101105j:plain f:id:himazindatch:20171210101237j:plain

左の写真は国境封鎖が告げられた後に西側に逃げる東ベルリン市民。持っている荷物の少なさや、逃げているその様子から事態の切迫感が見て取れます。

右の写真は国境封鎖後、東ベルリンに住む老夫婦がアパートの西側の窓から、西側に住む孫の結婚を祝っている様子です。結婚式のために西側に行くことができない老夫婦は、こうして窓から一目孫の晴れ姿を見ることしかできなかったのですね…

このように国境上に住む人たちの中には、窓から飛んで西側に逃げる者も多くいたとのこと(その様子のビデオもここに展示されていました)。しかし、その後アパートの窓はレンガで埋められ、その後住民は追い出され、壁が建設されたのです。

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他にも、壁の建設のために教会を爆破したり、墓地を移動するために死者の棺を掘り起こしたり、やりたい放題だったようです…(左の写真の囲われているところが教会があった場所、右の写真が爆破の様子。神社やお寺を別の建造物を建てるために爆破するのと同じだと考えると、事態の異常さがイメージしやすいでしょうか…)

 

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今回ご紹介したのはベルリンの壁・冷戦関連の史跡の一部にすぎません。他にもたくさんの史跡や資料館などがありましたが、紹介しきれないので興味ある方はぜひネットで調べてみたり、機会があればぜひ現場に足を運んでみてください。

日本の中学・高校で学ぶ歴史の授業では、ほんの少ししか触れられないベルリンの壁には、このような政治的動乱に翻弄された人々の存在があったということを今回現場で知ることができ、非常に感銘を受けました。そして同時に、それを忘れずに生きようという人々の意思も感じました。と言っても、ベルリンの壁が建設されてからはまだ高々50年程度。その意思を引き継ぐのはこれからが課題なのかもしれません。

記憶とは曖昧な物です。過去のことに関する真実を知るというのは難しい。

ですが大切なのは、得られる多角的で断片的な記憶をできる限り残し、それを顧みて、そしてそこから国や文化を超えた私たちの未来のための最善の決断を考えることかなと思います。「あぁ、悲しかったなぁ」みたいなお涙頂戴で終わってはいけないかなと。

 

壁の跡に沿って歩いていると、壁の間にあったかつての国境警備隊の巡回エリアで、地元の子供たちが楽しそうに鬼ごっこをしていました。そういう何気ない風景ですらいとおしく思える、そんな瞬間でした。

 

ベルリン探訪記はもう1回だけ続けようと思います。

次回はその他の印象深かった場所をハイライトでお届けする感じですかね。

興味ある方はぜひ。

 

では。

Tschüss!